今日もプログラミングを頑張った

 別に何も、高度なことをしているというわけでもないのだが、元々のシステムが私の作ったシステムなので、他の誰がやるよりも私がやったほうが楽だし早いし結果も出るだろうというわけで。そんなわけで、今の仕事には多少やりがいはある。それでも、なんだかやる気がでないのか元カノのことばかり思い出しながら仕事をしている。でも、冷静になってみれば、元カノとたとえうまくいって食事ができたとしても、いやなことを言われてお金も失うだけなのではないかという気もする。そうして会えば会うほど自信を奪われて自分の自己イメージが小さくより小さく縮こまって、生きる気力をますます失ってしまうのではないか。

 だったら、一人でゲームでもして満足して、仕事に打ち込んでいるほうがいい。自分はその自己イメージが間違っているとしても、自分が元気であったころの自己イメージまでは回復させなければならないと思う。野心的だったころの自分に戻るためにも、元カノのことは忘れたほうがいい気がする。

 なのになぜだろう。むかしの友達とゲームしたり遊んだりしたいのと同じように、元カノと食事したり映画したり探検にでかけたりしたいという気持ちが湧いてきていつも集中力をうばってしまう。

 元カノのせいではないのだ。自分の中に元カノのことを家族だと認識している部分があって、元カノと離れているとその部分がホームシックに似た感覚にかかるのだと思う。それはかつては、母方の実家に対してそういう感情を生んで、毎週のように自分を帰省に駆り立てた。同じ孤独の感覚を今は元カノの残像に対して生み出しているのだと思う。

 会いさえすれば、すべてが解決するかもしれないと去年のあの頃は思っていた。でもそうじゃなかった。そのことを理解するためにこそ会ってよかった。会っても気持ちは同じじゃないし、元カノはもう、私には未練がない。忘れていて記憶も完全には残っていないぐらい、そのあとの苦労のほうが濃い日々だったのかもしれない。私と離れた後の元カノは、長い間受給していた生活保護を抜けて、日雇いや派遣などで工場やコールセンターなどの仕事を頑張ってきていた。そのことは彼女を大きく変えたと思うし、すごく立派になっていた。会った時は、失業していたけれど、今頃は就業移行支援に通所をしており、障碍者枠での就業を目指してがんばっているのだと思う。障碍者枠での就業は給与が低めかもしれないけれど、体調に応じて長続きできる働き方になればいいなと思う。そんな彼女の日々にとって、むかしの元カノの姿しか知らない私は邪魔になるのだ。そう思えた。

 明日は、花火大会がある。二人で一緒に観に行ったことがあって良かった。祭りも。二人で一緒に楽しんだことがあって良かった。去年も開催されたけれど、それまではしばらくコロナで開催されなかったことを思い出す。いままではずっと、自粛するのが当たり前だと思ってきたけれど、なんだか今年は胸騒ぎがして、また一緒に楽しめたらなと思ってしまった。でも、もう間に合わない。