大抵のことが実は車輪の再発明である。
日常生活での悩みだって実はそれを経験した先人がひとりもいないようなことなんて、なくて、自分の頭で考えるまでもなく先人がどのように対処したかの教訓をそのまま適用したほうがいい。
まったく未知の事柄に遭遇しない限りは、自分の地頭など使う必要はなく、地頭の差など関係がない。そして人類の歴史は長いので、我々が悩んでいるようなことはほぼ必ず、どこかの誰かがすでに悩んで乗り越えたことのある悩みでしかない。
なにかそんなことを思った。
将棋のAIについて考えていて思った。
将棋のAIは5割ぐらいは評価関数を作ることだそうだ。それは局面の有利不利を計算する数値をはじき出す式だ。その精度が高ければ、あまり深読みしなくてもある程度アドリブで強いらしい。地頭がいい、ということに相当すると思う。
でもそれだけでは肉を切らせて骨を断つような状況を読めないので、深読みが必要になる。深読みには高速な探索アルゴリズムが必要だ。でもここには限界がある。組み合わせが爆発して不可能なのだ。これを、事前に膨大な過去の譜面を学んだり自分で自分と戦いまくった結果を学んだりして、深読みするのではなくて事前に暗記しまくっておくことで対応する対応ができる。ここは、学力に相当すると思う。
将棋AIも、学力と地頭の掛け算で強さが決まるようだ。今は、ビッグデータの時代なので、学習データはどんどん際限なく巨大になっていく。そうすると、未知の局面が減っていき、徐々に既知の状況で覆われていく。そうするともう、アドリブで計算する必要性はなくなっていくかもしれない。そうなっていくと、地頭の必要性が徐々になくなっていくかもしれない。