Discordで友人らと語った時、私が遅れて入ったら後輩が慌てて「この話はここまでにしましょう」と言うのが聞こえて、私をおだて始めた事がある。
私は、嫌な感じを覚えた。
私の悪口を言っていたのかなと思ったのだ。
その後、私はなぜか自分でもわからないままそこにいたもう一人と将棋をやりまくったり、断酒によって自分が変わり始めたということをアピールし続けた。将棋をやっていたのは自分が負けを受け入れられない性格があるからなのだろうか、と思ったりもしていたと思う。
だが、昨日後輩とチャットしつづけてもういいかとなった。Discordへの執着が消えた。チャットし続けることで、また私の悪口を言うだろうという感じがいつのまにか消えて、そのことによってスッキリしたのだ。本当に解消したかったのは、これだったのであって、自分のイメージを向上させようという無意識の試みはいくらやっても終わったという実感には到達できない。そんな事を感じた。
もっとあれこれ言うことだってできるのだが、やりすぎるとむしろ今度はうらみを買うだけなのではないかと思う。うらみというのは厄介なものだ。人からうらみという言葉を聞くとどうも違和感を感じるが、それはたぶん人間は、自分がうらみをもっているということを正直に自覚することなんて本来無いからだと思う。あるのは、うらまれているなという自覚だけではないか。自分はやりすぎているなうらまれているなという感覚によってしかうらみという感覚は登場しないものではないか。仕返しをされてもおかしくないなという負い目が、うらまれているということなのだ。相手を恐れて、こわいから、やりすぎる、言いすぎる、この先やり返してこないように、と。そうするとうらまれているという感じが生まれる。自分は正しいと周囲に吹聴しながら、NATOの様に集団の力で、相手を封じ込めるのだろうか。それは巧妙ないじめで、うらまれているという感じがうまれ、やりかえされるなというテロへの不安がうまれるものだろう。