ふと、昔の同僚たちはいまどこでどんな風になっているのかなという事が気になるときがある。
みんな相変わらず活躍しているのだろうか。たぶんそうなのだろうけれど。結婚はどうしたのかとか、子供はできたのかとか、年収はどうなったのかとか、いま役職はどうなっているのかとか、どんな暮らしぶりなのだろうとかそういうことが気になってしまう時がある。
私だけが何もないのだろうかと。
むかしは羽振り良かった会社だが、今は存在感がなくなってしまった会社もある。会社そのものが消滅しているところもある。そんな中で退職している人もいるだろうし、転職している人もいるんじゃないだろうか。そういうとき、みんなどこを目指したのだろう。
いくつかの会社が本当に良い会社だった。私はその会社のサービスにどっぷり浸かって生活できることを大いに楽しんだ。けれどそういう会社にも自分は溶け込めていなかった。みんなはそう思わずに溶け込んで迷いなく生きているのだろうか。
そのままがんばっていればよかったのにと思う。欲をかいてないものねだりをしたり、何かと比較して自分が恵まれていないとあのときでさえ思って、そうして他の道に迷ってしまうということがいつもある。しなくてもいいときに判断をすると、正しい選択肢がないときに選択をしてしまうことがある。何も感じない人だけがそういう間違いを逃れられるのだろうという気がする。血迷ってしまうことがない人というのはそういう人なのだろうか。
迷わずに残っていたとしてもどの環境でも僕は今の歳まで居場所を保っている事はできなかっただろう。今の環境の、今の働き方でしか、自分はつながっていることはできなかったろうと思う。ときどき調子が狂い、おかしなことをしてしまうこともある。そういうときでも、受け止めてくれる環境がたまたま与えられているのは本当にありがたいことだ。私は人並みではない。なのに人並みに扱ってくれていることが、ありがたい。上を目指すとかそういうことはたぶん私にはむいていない。そういう器じゃないのだ。だけど自分に果たせる自分なりの役割や、自分が得意としていることがある。それがうまくいかせている場がたまたまここには見つかった。たぶんほかの場所でも他の人がそういう場所をもっている。その場所は、競争で得られるものではない。めぐり合わせでしか得られない。そういう気がする。
そのこと、今の環境のありがたさを、色々な求人を調べていてむしろ感じた。
いい条件の求人はあるが、それらの職種で活躍できる年齢層は私よりも若い若手だと思う。私は年齢が行き過ぎている。なのにスキルは若手よりも劣ってしまっていると思う。だからそういう求人のほとんどにはマッチしない。それでも受け入れてくれる求人があったとしても、そこでは今のような優しい環境は整っていないだろうし、せっかく培ってきた居場所をすべて失ってまた築きなおす必要もある。今よりもいい条件というよりも、今と同じ条件になるためにまた何年も苦労をやり直す必要が出てくる。そういうことを思った時に、今の環境がいかにありがたいものなのかが身に染みてくるのを感じた。