いろんなところにいって、そこで話すことができるのは
新しい人を歓迎しなければならないと言う共通了解があったり、
順番に話すような仕組みがあるからである。
いろんなところで、自分が受け入れてもらえるというのは、新しい人を歓迎する仕組みがあるからであって、自分が自分だから受け入れられているというわけではないのだ。そこを捉え違ってしまうと、どこかで急に、総スカンを食らったように感じて、続けられなくなってしまうだろう。
なんだろうね。かえってよく分からなくなったこともある。
自分で考えることをやめて、奴隷のようになる以外に、生きていられる道はないということなのだろうか。さすがにそういうことではないと思える。
でもわからない。
ある意味では、そのような滅私の心がなければ、あのような広いココロで誰もを受け入れることなどできないのかもしれない。なにかそこが、手の届かないところのように思える。