ミーティングにはようこいと。そして皆と一緒に帰れといわれていたので、早めに行って、そして最後まで残ってみた。
そんなに、ムリなことはなかった。色々教えてもらえるし、話を聞いて驚いたり感嘆したりしているうちに時間がすぎるのだった。少しずつ知っている話題もふえてきているのだった。自分の話をきりだすタイミングもある。みなさんのことも分かってきているし、どういう人なのかそれぞれの話している内容から過去も分かってきている。
不思議だけれど、やはりなにか分かり合える、つながりあえる。そういうことが出来る人たちのなかにいれば、自分もやがて自然にマネをして、できるようになるのかもしれない。それを感じるためには、やはり早く来て、最後まで見届けないと気づけないということだったのかもしれない。
自分にできることは、いまの時点では、話を聞く事、そしてそれを覚えて、一人一人のことを知ることだと思う。
とりあえずまあ、帰りにマツモトキヨシに寄った。
そして、むかしマツキヨでトローチや何かを元カノと買ったなと思い出しながら、買い物していた。でも、それ以来来ていないという事ではない。久しぶりに来たことは確かだが、あの後も、痔ろうのときには膿を止めるための絆創膏や大人用のおむつなどをかっていたし、プロテインも買っていたはずだ。そういうときには、同棲時代のことなど思い出しもしなかったなと思う。マツキヨの鼻炎薬とトローチと喉のスプレーはみな同じ成分だとある時気づいた記憶があったのだが、実際には鼻炎薬は違う成分で、トローチと喉のスプレーだけが同じ成分だった。鼻炎薬は、実はアレグラと同じ成分だった。そしてもうひとつの鼻炎薬はアレジオン20と同じ成分だった。私はアレジオン20と同じ成分の鼻炎薬を買った。そうして、隣のローソン100に行った。久しぶりだった。むかしは200円弁当などを買ったと思い出した。そして袋の野菜を、そのまま食べていたなと思う。100円の野菜だった。そして150円の6%の酒を買っていたことも思い出した。うまサワーという名前の酒だった。本当にあの頃は、カネがなかったなと思う。痔ろうの入院手術で30万円かかると言われて、そのお金がなかったので痔ろうの手術ができないと会社に相談していた。あの頃私は年収を半分にされていた。そうして痔ろうなのに手術もできないと言っていたのだ。日帰り手術できるところを探してもらって、そこで日帰り手術を受けた。そうして、仕事で自分なりに成果をだしたと思った。でも、ほんの少ししか年収は戻らなかった。そのまま、カネのないまま暮らしていたころに、私は200円の弁当や、100円の袋野菜や150円の安酒だけを買って毎日なにもできずに暮らしていたのだった。味のしない弁当。農薬のような味の野菜。薬品のような味の酒。パソコンが壊れ、中国製のミニPCを数万円で買うしかなかった。そしてAPEXをしたりしていた。そのまま、その年の暮れに、幻聴が聞こえて近隣の部屋の住民と壁越しにトラブルになり、警察を呼んだり怒鳴り合って、おかしなことを言ったり考えたりやったりして休職になった。カネがなくて手術できないといっていた翌年のことだった。カネがないまま休職になり、傷病手当金が出ないと言われた。親に助けを求めた。助けてもらえた。傷病手当金も労働局かなんだかゆうところに訴えたら認めてもらえて後からまとめて支給された。しかし本当に、親に助けてもらえなかったら、あそこで終わっていた。働いているにもかかわらず、生活できないということになっていたと思う。でも、恨みもつらみもなにもなかった。はやく復職しなければと思っただけだった。なにかしら、可哀そうだなと自分でも思えてしまう。復職して、元カノに連絡を取った。ほどなくして、連絡がとれなくなり、そうしてしつこく連絡をとろうとしたら、警察を呼ばれた。
同棲していた二年半という期間は、長い時間だと思っていた。しかし、それが終わってからもう5年も経っている。いまから二年半前というと、幻聴が聞こえていた頃だと思う。APEXをやりはじめたのが3年も前のこと。二年だの三年だのたっても、私はなにも分かるようにもなっていないし、なにもできるようになってもいない。
自分がどういう状態なのか、自分では客観的に分かっているつもりだった。自己分析もしっかりできているつもりだった。けれども、よく考えてみると、客観的に分かっていたら、あんな中で平然と暮らしていられたろうか。ローソン100に行ってみて、あの頃あたりまえのように食べていた食べ物や飲み物をみて、普通に働いているのになぜこんなものを食うしかないほど生活が追い込まれていたのだろうと、素朴に思わざるを得なかった。生活保護を受給するよりもはるかに下ぐらいの生活水準だったのではないだろうか。いまでも私は、水道水をペットボトルにくんで、冷蔵庫で冷やして飲んでいる。